原貫太の国際協力ブログ

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アフリカの貧困なんかより日本の貧困に取り組め、と私に言うあなたへ。

アフリカの貧困に関する記事を書いていると、時々こんな意見が飛んでくる。

 

「アフリカの貧困なんかより、日本の貧困に取り組め。」

 

日本人の私は、アフリカではなく、日本の貧困に目を向けなければいけないのだろうか。

日本人がアフリカの貧困に取り組んでいると、批判されなければならないのだろうか。

 

私たちが生きているこの世界では、「アフリカの貧困」「日本の貧困」と、簡単にわけて考えられるものなのだろうか。

 

 

こちらの記事もよく読まれています➡絶対的貧困とは?アフリカの写真11枚と一緒に、そのリアルな実態を解説 - 原貫太のブログ

 

アフリカの貧困、日本の貧困を語る前に考えるべき、公正とは

アフリカ 貧困

アフリカ・南スーダン難民の子供たちと筆者

 

私は決して、アフリカの貧困解決のためだけに活動する人間ではないが、本記事では「公正」という概念を中心に考えてみたい。

 

この「公正」は、アフリカの貧困であれ日本の貧困であれ、格差が限りなく広がったこの世界を良くするためには、避けては通れない概念だろう。

 

まず断っておくが、公正は平等とは違う。似ているようだが、公正と平等は異なる概念だ。

 

公正とは、人々に同じ機会へのアクセシビリティ(accessibility)が確保されていることを指す。

 

時として、個人それぞれの差異や来歴は、何らかの機会参加に対し、障壁となることがある。先進国と途上国の間でも、同じ国の中でも、生まれた場所の社会状況や家庭環境によって、医療、教育、食事、情報といった、一般的には「あたりまえ」に享受できる機会への参加が妨げられることがある。

 

貧困をはじめとした”構造的暴力”の蔓延る現代世界

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路上で生活するバングラデシュのストリートチルドレン

 

しかも、私たちが生きる現代世界では、その人自身の責任ではないにも関わらず、社会構造に起因する原因によって、貧困層をはじめとした社会的に弱い立場に置かれる人々がいる。

 

例えば、経済成長著しいアフリカの国であっても、都市部に足を運べば、路上で暮らすストリートチルドレンがいる。彼らのように、教育や医療といった基本的人権にすらアクセスできない貧困層を、より大きな「社会構造」という視点から考えてみると、一概に彼らの自己責任とは言えないことが見えてくる。

 

このように、暴力を産み出す主体は不明確だが、社会システムの中に定着し、資源配分とその決定権の不平等などが構造化していることを、平和学の権威ヨハン・ガルトゥングは「構造的暴力」と名付けた。

 

 

戦争や武力衝突といった「直接的暴力」は存在していなくても、貧困、飢餓、格差などが存在するアフリカやその他の地域は、決して「平和」とは呼べないのだ。詳しくは、下記の記事を読んでみてほしい。

平和の反対は戦争ではなく暴力だ【積極的平和・消極的平和とは何か】 - 原貫太のブログ

 

スタートラインにすら立てない人がいる世界は公正じゃない

少し話が逸れてしまったが、公正が担保されることによって、その社会に暮らす人々は同じ機会にアクセスすることが可能となる。

 

その機会を行使するかどうかについては、個人の意思に尊重されるべきだと私は考えている。しかし、自分の責任ではないにもかかわらず、本来あたりまえのものとして享受できる機会に対しアクセスできない人がいる世界を、つまりスタートラインにすら立てない人がいる社会を、公正と呼ぶことは難しいだろう。

 

それこそ、私が口にする、"世界の不条理"だ。

 

日本で広がる相対的貧困の問題

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一方で、私たちが暮らす日本も、公正な社会とは決して呼ぶことができない。相対的貧困の問題がまさにそうだ。

 

日本は貧困率が約16%と非常に高い国の一つで、6人に1人は貧困ラインを下回る生活を強いられている。これは、OECD加盟国の先進国30か国中でも4番目に高い。

 

貧困には大きく、アフリカ諸国をはじめ途上国で問題になる「絶対的貧困」と、昨今の先進国で先鋭化している「相対的貧困」の二つが存在する。日本の貧困は、後者の相対的貧困から考える。

 

日本の貧困、つまり相対的貧困の定義は、全人口の所得、その中央値の半分を下回っていることを指す。年によって多少の変化はあるが、日本の所得の中央値は概ね年収250万円。そのため、250万円の半分にあたる年収125万円以下は「貧困」と定義される。

 

年収125万円というと、月収にすれば約10万円だ。もちろん、日本の”一般的”な家庭、例えば子どもが大学に通える家庭であれば、月収10万円という額はとても少ないように感じるだろう。

 

だが、私がアフリカで出会った難民の月収は、わずか300円だった。絶対的貧困の定義は一日200円以下の生活とされるため、月収300円が極めて貧困な生活を強いられていることは、容易に想像できるだろう。

 

また、アフリカで生きる彼らには、安全な水や衛生環境、また住居も十分に確保されていないことを考えると、日本の貧困である月収10万円という金額は、まだ”マシ”に思えるかもしれない。

 

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相対的貧困の問題点はどこにあるのか

では、日本で広がる相対的貧困は、どこに問題点があるのだろうか。

 

その時に考えるべきことがまた、一つの社会における公正だと私は思う。

 

高校・大学に通い、十分な教育にアクセスできること。スマートフォンを手にし、あらゆる情報にアクセスできること。

 

もはや”周りのみんな”にとっては「あたりまえ」である生活を享受できない人々がいる社会というのは、決して公正ではなく、真の意味での豊かさは失われてしまっているのではないか。

 

さいごに

最初に書いたように、アフリカの貧困に関する記事を書くと、いや、私がアフリカの貧困問題に取り組んでいることを発信すると、「アフリカに貧困なんかよりも日本の貧困をどうにかしろ。」といった意見が飛んでくる。

 

時には、「お前が大学に払っている学費を全て寄付しろ。」といった、余りにも短絡すぎる意見すら目に入る。

 

グローバル化が進展し、あらゆる出来事が繋がりを深め合う今日の世界では、社会問題は複雑化し、ある国の問題が他の国の問題と関係していたり、両者に共通の要因を見い出せたりできる。もちろん、アフリカの貧困であれ日本の貧困であれ、単に「寄付」で解決できるほど、単純な問題ではない。

 

日本で暮らす私たちの生活が、海外との繋がり無しには考えられなくなった今日。ヒト、モノ、カネ、情報が簡単に国境を超えているにもかかわらず、社会問題の文脈になった瞬間だけ「アフリカの貧困はアフリカ人が解決し、日本の貧困は日本人が解決する」という指摘に、私は違和感を抱いてしまう。

 

私が目指す「不条理の無い世界」を実現するためには、アフリカの貧困に取り組んでいるだけでは、きっと不十分だ。どうか私がアフリカの貧困について偉そうに語っていたとしても、ただ「アフリカの貧困ではなく、日本の貧困に取り組め。」とは言わないでほしい。

 

日本は時に「批判大国」と揶揄されることもあるが、批判的な視点であっても提言をし合い、その先にある協働を模索できる社会の方が、よほど過ごしやすくはないだろうか。これからの日本社会を担う若者だからこそ、そう願ってしまう。

 

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