ウガンダの隣国、ルワンダに来た。「アフリカのシンガポール」と例えられるほど経済成長著しいルワンダは、豊かな自然にも恵まれた美しい国だ。しかし、1994年には100日間で80万人が虐殺される「ジェノサイド」が発生。私がこの国に来るのは2回目、虐殺の歴史を追った
フツ系政府とそれに同調する過激派フツの手によって、1994年4月~7月の100日間に少数派ツチと穏健派フツ約80万人が殺害された。4月にフツ系大統領が何者かによって暗殺されたことをきっかけに、フツとツチとの抗争が激化し、虐殺は国全域へと発展した
本来、フツとツチとの区別は曖昧で、身長や鼻の長さ、皮膚の色に多少の違いは見られるものの、その外見や文化、習慣などに差異を見出すことは難しい。しかし、植民地時代にベルギーが「ツチの方がヨーロッパ人に近く優秀だ」という人種的差別観を持ち込み、両者が対立する原因が生まれた
ベルギーは全ての首長をツチに独占させ、税・労役・教育などの面においてツチを優先、1930年代にはフツ・ツチの身分を区別するためにIDカードを導入した。ベルギーは分断統治、つまり少数派であるツチを中間支配者層に、大多数のフツを更なる支配下に置き、植民地経営を円滑にした
しばしば誤解されるが、ルワンダでの虐殺は94年だけではなく、それ以前にも起きている。ベルギーからの独立以来、ルワンダではフツとツチの対立が長らく続き、1994年4月7日から始まった虐殺は最大規模に達した。虐殺はツチ系のルワンダ愛国戦線が同国を制圧するまで続いた
昨日、一夜にして4万5千人が虐殺された技術学校の跡地、ムランビ虐殺記念館を訪れた。ここは他の記念館とは違い、今でもミイラ化させた全身の遺体を当時の形のまま、展示している。展示室に足を踏み入れた瞬間、部屋に漂う異様な臭いと雰囲気に、一瞬後ずさりする
4万5千人の虐殺。それが起きたのは、1994年4月21日、私が生まれる前日の事だった。
「丘の上の学校に避難すればフランス軍の保護が受けられる」という市長と教会の司教の言葉に欺かれ、避難していたツチ人約4万5千人が、過激派民兵に殺害された(下の写真は別の虐殺の跡地で撮影した犠牲者の衣服)
一人は斧で、一人は鉈で、一人は手榴弾で、一人は銃で。夫が妻を殺し、妻が夫を殺した。隣人が隣人を殺した。「死んでいくのはアフリカの黒人」と、ルワンダに無関心の国際社会はただそれを傍観し、介入することはなかった。この様相については映画『ホテルルワンダ』や『ルワンダの涙』を観てほしい
建物の中には、犠牲者のミイラ化・白骨化した遺体が無造作に並べられていた。頭蓋骨の割れた遺体、赤子を抱いた母の遺体、手足の切断された遺体、叫ぶように口を開けた子どもの遺体。部屋にはこれまで嗅いだ事の無い異様な臭いが漂い、遺体は触るととても冷たく、決して人の身体とは思えなかった
「世界から虐殺は無くなっていない。今この瞬間も、多くの人々が不条理な死に追いやられている」という私の問いに、当時12歳だった人は、「世界は何も学んでいない」と答える。
今日、虐殺の跡地では子ども達が元気に笑う。ルワンダ虐殺から23年の月日が流れ、世界はどれだけ変わっただろうか
訪問者が残したコメントは、「Never Again」(二度と繰り返さない)ばかり。南スーダン、コンゴ民東部、ソマリア、シリア、イエメン…先進国に生きる私たちは、テレビに映し出される世界の紛争や貧困を未だ「可哀想」の一言で片づけ、愛する家族や恋人とディナーを続けているのだろうか
どれだけ恐ろしかっただろう。どれだけ悲しかっただろう。どれだけ悔しかっただろう。当時の状況を想像する事は出来ても、その奥底にある感情まで捉える事は難しい。
「世界は不条理だ。生まれた場所によって"命"の価値が変わってしまう。」
そんな現実を前に、今私たちは何を考えるべきだろう(終)
(番外編①)
ルワンダ虐殺の知られざる真実。最近の研究では、殺されたツチよりも、現大統領ポール・カガメ率いるツチ系軍隊が殺したフツの方が多かったという分析もある。ルワンダ愛国戦線はルワンダの政権を掌握した後も、コンゴ東部で虐殺を続けていたことが国連報告書で暴かれている
(番外編②)
虐殺の直接の引き金になったルワンダ大統領が乗った飛行機撃墜は、最近ではポール・カガメ率いるルワンダ愛国戦線の仕業だったことが明らかになりつつある。カガメ率いる軍を背後で支援していたのは、アメリカ。カガメは被害者面ばかりし、そして戦争の勝者はいつの時代も裁かれない
(番外編③)
フツ対ツチの構図で虐殺が最初に起こったのは隣国ブルンジ。1972年には20万人、88年には5万人のフツがツチ政権によって虐殺されている。映画の影響もあり、東アフリカ一帯で注目されるのはルワンダ虐殺ばかり。ブルンジでの虐殺は世界から忘れ去られ、未だ世界で最も貧しい国のままだ。