原貫太の国際協力ブログ

フリーランス国際協力師原貫太のブログです。国際協力やNPO・NGO、アフリカ、社会問題などのテーマを中心に解説しています。

「世界は何も学んでいない」『ホテルルワンダ』の舞台、ルワンダ虐殺の跡地訪問(後編)

たった100日間で80万人もの犠牲者を出したと言われているルワンダ大虐殺から、2016年4月で22年が経つ。

 

ルワンダの虐殺の死亡率は、第二次世界大戦中にナチスドイツが行ったホロコーストの3倍以上だとも言われている。ルワンダ虐殺がこれほどまでに規模の大きく、そして絶望的なものへとなってしまった要因として、これまで「国際社会の責任」が問われてきた。国連の内政不干渉原則、映画『ブラックホーク・ダウン』でも描かれたソマリアでの米国の介入失敗、同時期に起きていたユーゴスラビア紛争に対してルワンダは資源に乏しく国益に叶わないと各国から見なされたこと…。たくさんの原因が絡まり合い、国際社会、とりわけ国連は、虐殺に対する介入を躊躇し、結果として取り返しのつかない過ちを犯してしまった。

 

ルワンダ虐殺からの教訓として、国連は2005年の国連総会特別首脳会議にて「保護する責任(Responsibility to Protect)」という概念を新しく生み出す。保護する責任の詳細をここで書くことはしないが、「保護する責任」とは、「国民の保護という基本的な国家の義務を果たす能力の無い、もしくはその意思の無い国家に対し、国際社会は本来当該国家の保護を受けるはずの人々の『保護する責任』を負う」という新しい概念のことを指す。この概念の誕生により、人道危機の文脈における国際社会の役割は大きな進歩を見せると期待された。

 

しかし、1994年のルワンダ虐殺から学んだ教訓を、私たち国際社会は果たして、どれほど覚えているのだろうか。今年で5年目へ突入するシリア内戦は、これまでに25万人以上もの犠牲者を出しており、多くの子どもたちや女性が人道危機に瀕している。そしてその多くは、本来国民を保護するべき役割を担うはずのアサド政権によるものだ。そのような紛れもない「事実」が眼前にあるにも関わらず、安全保障理事会は、拒否権という国連を成立させるためのアメリカ-ソ連妥協の産物によって、本来果たすべき役割を一向に果たせていない。結果として、国際政治の動向は未だに国家主体のままであり、国連は難民・国内避難民支援などの二次的な状況を除いて、問題の改善/解決に向けて大した役割を果たせていないのが現実である。

 

これほど戦争(紛争)が形態を変えた現代において、第二次世界大戦の戦勝国が拒否権を握り続けるシステム、いやそもそも拒否権というシステム自体に、本当の意味での正義など存在し得るのだろうか。

 

「国際社会」という言葉は、どこか他人行儀な所があるかもしれないが、結局それを構成しているのは、私たち一人一人のヒト、だ。22年前と比べて、私たち一人一人の意識に、何か変化は起きているのだろうか。決して覆ることなどない「ルワンダの悲劇」という明白な”歴史”が存在しているにも関わらず、テレビの向こうで繰り広げられている世界の紛争や貧困を、未だに「可哀想だね」の一言で片づけて、自分の愛する家族や恋人と楽しくディナーを続けているのではないだろうか。

 

 

人間とは、どこまでを自分と同じ「仲間」として考えるかによって、その行動が変わってくる生き物だと聞いたことがある。自分だけが「幸せ」なら、それで十分なのだろうか。家族の「幸せ」までか、それとも友人までだろうか。もしくは同じ地域に住んでいる人か、同じ国の人までか。更に大きく、人類、つまり同じ種としての人間全ての「幸せ」までか、それともこの世界に生きる全ての生物までか―。抽象的な議論ではあるが、人間として、いや人間らしく生きるためには、誰もがこの事を考えなければならないと私は思う。

 

今この記事を読んでいるあなたにとって、「他者」という概念は、何を意味しているだろうか。その「他者」にも、自分と同じように人格があって、感情があって、意識があって、そして人生があるということを、「理解」できるだろうか。もしその「理解」が当たり前のようにできているのであれば、今まさにこの瞬間にも"世界の不条理"に追いやられている人々を、その「他者」と同じ「他者」として、考えられるだろうか。

 

 

地球上で生きる様々な人々を「他者」と認識し、彼らに対する「理解」を持つこと。そして同時に、今自分が置かれている環境に対して、「自覚」を持つこと。このような過程を踏むこと、踏み続けることによって、先に提唱した議論は、その深みを増していくのではないだろうか。

 

ルワンダは「アフリカのシンガポール」と呼ばれることもある。経済成長率年6%の陰で、富裕層と貧困層の格差も広がってきている。バングラデシュの首都ダッカのような経済成長の著しいアジアの発展途上国に比べれば、の数はごく僅かではあったが、首都キガリではストリートチルドレン(=親元から離れて路上で暮らしている子どもたち)も何人か見かけた。発展から取り残されている人々の中には、もちろん不満を持っている者もおり、その感情が新しい憎しみの種となって、かつての民族対立へと還元される可能性も、決してゼロだとは言い切れないはずだ。

 

 

世界には、どうしようも無いことが沢山ある。例えば、資本主義経済システムにおける「格差」の問題は、その中の一つかもしれない。つい先日、オックスファムが出した最新の報告書では、世界で最も裕福な62人が世界の貧しい人の半分に値する36億人の総資産に匹敵する資産を所有するに至ったことが指摘されている。

 

今の世界のシステムや「開発」という考えでは、誰かの「快」は誰かの「苦」によって支えられる。そしてまた、グローバル化が不可逆なものとして進展し続け、あらゆるできごとが繋がりを強め合っている今日の世界において、「自分」と「他者」がどこでどう繋がるかなど、分からないと思うのだ。あなたが今着ている服は、どこから来たものだろう。あなたが今使っているスマートフォンの原料は、どこから来たものだろう。

 

このような時代だからこそ、私は考え続けたい。自分にとって、「他者」とは何を意味しているのか。自分にとって、「仲間」とは誰なのだろうか。一人一人が人間らしく考え続けることが、この世界の平和へと繋がっていくのではないだろうか。

 

*2017年3月20日、一部修正・加筆