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原貫太公式ブログ「世界まるごと解体新書」

アジア・アフリカでの活動からニュース解説記事、ライフハックまで。原貫太が世界をまるごと解体します。

私が死ぬまでに実現したい世界/社会(ビジョン)

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私が人生をかけて果たし続けたい使命、そして信念でもある「”世界の不条理”に挑戦する」。大学1年時にフィリピンで物乞いをする少女を目の当たりにし、そして国際協力の世界に足を踏み入れてから、私はこの言葉をずっと心に留めてきた。

 

苦しいこと、辛いことがあれば、この言葉を思い出し、自分を奮い立たせてきた。(どのような経緯で「"世界の不条理"に挑戦する」という使命・信念が芽生えたかについては、「一人の「少女」との出会い~僕が「国際協力」に目を向けたきっかけ~」をご覧頂きたい)

 

ただ、この「”世界の不条理”に挑戦する」はあくまで’使命’(ミッション)もしくは信念であり、’ビジョン’、つまり私が死ぬまでに実現したい世界/社会にはならない。むしろ、この使命・信念だけを掲げ続けているならば、それは”世界の不条理”が存在し続けていなければならないようにすら感じる。まるで、(本来私が好ましくないと考えている)その状態に甘んじているかのようだ。

 

テラ・ルネッサンスでの1ヶ月にわたるインターンシップを通じて「原点」に振り返る大切さを感じ、そして将来のことを真剣に考える必要がある今だからこそ、私が死ぬまでに実現したい世界、理想の社会であるビジョンを今一度しっかりと考えてみたい。

 

ミッションからビジョンへの置換

「”世界の不条理”に挑戦する」が人生の使命・信念であるならば、それは「”世界の不条理”を無くす(無くしたい)」という使命・信念に置き換えられ、そして「”不条理”の無い世界の実現」というビジョンへと昇華出来る。

 

しかし、ここで二つの問題が生じる。

 

一つ目は、"不条理"をどのように定義するかだ。 不条理というのは、誰かにとっての「正義」が誰かにとっての「悪」であるように(例. アメリカのイラク侵攻)、立場や視点、そして考え方によっては、その不条理は不条理ではないかもしれない。また、今ある不条理が無くなったとしても、別の不条理が生まれるかもしれない(例. イラク・フセイン大統領の失脚前後)。社会科学的に考えれば、現行の世界システムにおいて、「世界から不条理が無くなることは不可能だ」と言う人もいるだろう。だからこそ、私なりの"不条理"を定義する必要がある。

 

二つ目は、このビジョンがネガティブな視点から考えたものであるという点だ。死ぬまでに実現したいビジョンなのに、ネガティブ・ビジョンでは良くない。「”不条理”の無い世界」とは、一体どのように素晴らしい世界/社会なのか。「”不条理”の無い世界」の先には、一体どんな世界/社会が待っているのか。それこそが、本当の意味で私が考える「理想の世界/社会=ビジョン」であるのだから、ポジティブな視点から考えるものへと置き換えたい

 

一つ目の問題について考えたい。例えば、アメリカの大金持ちがさらに大金持ちになったとしても、それによって(世界の)最貧困層に位置する人々の生活が脅かされたり、また苦しめられたりすることがなければ、幾ら「格差」が広がったとしても、それは「許容できる」不条理とは呼べないだろうか。他にも、例え(いわゆる)先進国の人々とは(経済的に)生活水準が全く違う暮らしを途上国の人々がしていても、人間としての基本的な生活が保障され、その土地の文化や風習、そして彼ら自身の意思が尊重された生活が営まれているのであれば、その「格差」、いや「世界の状態」は”不条理”とは呼べない。

 

一方で、大金持ちがさらに大金持ちになることで、最貧困層の人々がさらに脅かされたり、苦しんだりするようでは、その「格差」は"不条理"だと私は考えたい。もしくは、例えば(いわゆる)途上国に暮らす人々が、日々の生活において、「脅威」や「苦しみ」に晒されている時、その「世界の状態」は"不条理"であり、「許容できない」と考えたい。

 

不条理は、時として不条理ではなくなる

先ほど言ったように、不条理と言っても、視点や立場、考え方を変えれば不条理では無くなるかもしれないし、今ある不条理が無くなっても、また別の不条理が生まれるかもしれない。そして、世界には「許容できる不条理」と「許容できない不条理」が存在すると思う。

 

ならば、ここで私は"不条理"を、もっと言えば、許容できず、無くなるべき"不条理"を、「誰かを脅かしたり、苦しめたりするもの」と定義したい。それはアフリカの紛争かもしれないし、ストリートチルドレンを産み出すバングラデシュの社会構造かもしれないし、日本のホームレス問題かもしれない。誰かを脅かしたり苦しめたりするものは、許容できない"不条理"として、無くなるべき"不条理"として、私は挑戦するのだ。

 

こうして、「”不条理”の無い世界の実現」というビジョンは、"不条理"を定義することにより、「誰かを脅かす・苦しめる”不条理”の無い世界の実現」というビジョンへと生まれ変わった。

 

では、二つ目の問題。「誰かを脅かす・苦しめる”不条理”の無い世界の実現」を、ポジティブな視点から考えるとどうなるだろうか。いや、「誰かを脅かす・苦しめる”不条理”の無い世界の実現」の先には、どんな素晴らしい世界/社会が待っているのだろうか

私は、「ひとり一人が尊厳を持ち、自分で『未来』を決められる、公正な社会¹」が、「誰かを脅かす・苦しめる”不条理”の無い世界」の先に待つ、理想の「社会」だと考える。

 

恵まれる人と恵まれない人の「格差」がますます深刻になる今日、貧困や紛争、環境破壊など、数え切れないほど多くの問題が生じている今日、求められるのは「公正な社会」だと信じる。

 

公正と平等は違う

「公正」とは、人々に同じ機会へのアクセシビリティ(accessibility)を確保すること。時として、個人それぞれの差異や来歴は、何らかの機会への参加に対して、障壁となることがある。公正さが担保されることで、その社会に暮らす人々は、同じ機会にアクセスすることが可能となるのだ。

 

「平等」とは違う。何も社会に暮らす人々が同じものを得て、同じ生活水準になり、そして同じだけの機会を行使する社会は求めていない。一つの社会に暮らす人々が、同じ機会へと"アクセスできる"「公正」な環境が大切だと考える。

 

そして、「公正」の下、人々が直接的のみならず、構造的な暴力に脅えたり、苦しんだりすることなく、日々の選択を自らの意思で下すことが出来る世界。ひとり一人が尊厳を持ち、自分で「未来」を決められる、公正な社会²

 

それは、「誰かを脅かす・苦しめる”不条理”の無い世界」が実現した先に待っている理想の社会であり、それこそが「"世界の不条理"に挑戦する」という人生の使命・信念を掲げた私が、死ぬまでに実現したい理想の社会だ。少なくとも、今はそう考えている。

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¹…「世界」から「社会」への転換。「公正さ」は、世界(全体)ではなく、私たちそれぞれが暮らしている個々の社会において担保されるべきだと考える。「世界」は幾つかの「社会」によって構成されており、「世界」よりも規模の小さな「社会」の中で「公平さ」が担保されるべき、というイメージ。「ひとり一人が尊厳を持ち、自分で『未来』を決められる、公正な社会」が、「誰も"不条理"に脅かされない、苦しめられない世界」を創り上げている。

²…「ひとり一人が尊厳を持ち、自分で未来を決められる」の私の解釈は(前行の)「人々が直接的のみならず、構造的な暴力に脅えたり、苦しんだりすることなく、日々の選択を自らの意思で下すことが出来る」こと。

 

※本記事の内容は、2017年1月29日「私が死ぬまでに実現したい世界/社会(ビジョン)②」に続きます。

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