原貫太の国際協力ブログ

フリーランス国際協力師原貫太のブログです。国際協力やNPO・NGO、アフリカ、社会問題などのテーマを中心に解説しています。

【難民支援の現場から】緒方貞子氏の名言「熱い心と冷たい頭」を思い出して

昨日、南スーダン難民居住区に足を運んだ僕は、言葉にならないほどの"不条理"を目の前に叩きつけられた。

 

昨年7月の紛争再燃以降、南スーダンからの難民が急速に流入しているウガンダ北部。「目の前で両親を銃殺された」と語る女の子は、まだ14歳だった。5歳~10歳の子どもたちと一緒にウガンダへ逃げてきたけれど、これからどうやって生きていけば良いのか分からない。そう話す彼女を前にして、僕はかける言葉が見つからなかった。

 

難民、虐殺、子ども兵。頭では理解している。理解しているけれど、いざ目の前に当事者が、それも現在進行形の当事者が現れた時、どうしても心が追いつかなかった。

 

この感覚、久しぶりだ。…いや、もしかしたら初めてなのかもしれない。

 

圧倒的に巨大な"不条理"を目の前にして、頭では分かっていても、心が追いつかない。無力じゃないって分かっていても、やれることが必ずあるって分かっていても、心が追いつかない。久しぶりに、本当に久しぶりに、不条理を前にして泣いてしまった。

 

紛争や難民、貧困などを扱ったニュースを普段からよく読み、そして勉強している人間として、"不条理"やそれに晒される人々の存在を、頭ではよく理解している。「あぁ。聞いていた通りの惨状だな」、と。

 

しかし、いざ目の前にその「リアル」が立ち現れた時、今の僕は、彼らやその状況に対する「頭での理解」と「心での理解」の間に、大きなギャップを感じてしまった。

 

「何とかしてあげたい」といった気持ちを全く感じていなかったわけでは、きっとない。でも、数値や事実での理解(頭での理解)と、一人の人間としてリアルに"不条理"や"不条理"に晒される人々と接した時の理解(心での理解)とが、どうしても一致しなかった。

 

普通に考えれば、目の前に言葉にならないほどの"不条理"を叩きつけられれば、「何とかしたい」「悔しい」といった気持ちが、心の底から強く、湧いてくるはずなのに。ましてや、一般的な人であればその逆で、頭ではその状況が理解できなくても、心では理解できるはずなのに。

 

正直に、焦った。「物事を頭で理解し過ぎているうちに、いつしか僕は心の冷たい人間になってしまったのか」、と。大学1年生の春、フィリピンで物乞いをするストリートチルドレンと出会った時は、頭ではその状況を理解できていなかった(その背景や原因などを知らなかった)が、心では理解していた。少なくとも、理解しようとしていた。だから、悔しくて、涙が出た。

 

これを書いていて、思い出した言葉がある。

 

「熱い心と、冷たい頭を持て。」

 

日本人で初めて国連難民高等弁務官(United Nations High Commission for Refugees)を務めた、緒方貞子さんの言葉だ。

 

現場で腐るほどの"不条理"を目の当たりにする人間だとしても、"不条理"に晒されている彼らと同じ状況になることも、同じ気持ちを抱くことも、できやしない。それに、僕だって人間なのだから、気持ちに浮き沈みが存在するのも仕方ない。自分で心の全てをコントロールすることもできない。だから、その瞬間瞬間に感じたことを大切にするという必要性も、分かっている。

 

だからと言って、冷たい頭だけを持ち、彼らの状況や事実ばかり理解しているようでは、人間らしくない。あくまで自分は彼らにとっての「他者」に過ぎないとしても、一人の人間として、彼らの姿やその不条理を目にした時に、熱い心を忘れることなく、理解したい。分かろうとしたい。

 

きっと、今の僕は「熱い心と冷たい頭」のバランスが、上手く取れていないのかもしれない。でも、心の火が完全に消えてしまったわけではない。やっぱり、昨日目の当たりにした"不条理"を思い返せば、悔しいし、何とかしたいと思う。

 

だから、もう一度「熱い心と冷たい頭」という言葉を胸に刻もう。そう感じた一日だった。

 

*「熱い心と冷たい頭」という言葉は、元々は英国の著名な古典派経済学者、アルフレッド・マーシャルが述べた言葉と言われている。

 

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緒方貞子氏の評伝ノンフィクション決定版『緒方貞子 戦争が終わらないこの世界で』