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原貫太公式ブログ「世界まるごと解体新書」

アジア・アフリカでの活動からニュース解説記事、ライフハックまで。原貫太が世界をまるごと解体します。

私が死ぬまでに実現したい世界/社会(ビジョン)②


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photo by Kanta Hara

 

昨年末に書いた記事「私が死ぬまでに実現したい世界/社会」。テラ・ルネッサンスでのインターンを通して、目指すべき理想の世界/社会を考える大切さを痛感した私は、12月初旬から約1か月間、考えに考えて、いわゆるビジョンを言葉にしてみた。

www.kantahara.com

 

「原体験は一つではない? 「計画的偶発性」理論から考える問題意識と価値観の変化」で書いたように、自分の生き方や考え方は、確かに根本的な所はぶれてはいけないかもしれないが、常に同じである必要は無いし、むしろ同じであるべきではない。批判的な視点を持ち合わせながら、常に考え続ける努力を惜しまないようにしたい。

 

以前の記事では、私が目指すべき理想の世界/社会を、「誰かを脅かす・苦しめる"不条理"の無い世界=ひとり一人が尊厳を持ち、自分で「未来」を決められる、公正な社会」と考えたが、改めて思考を重ねるに従い、"不条理"の定義に違和感を覚えた。

 

「誰かを脅かす・苦しめるもの」を"不条理"と定義しても、「自然発生的な誰かを脅かす・苦しめる」ものは、"不条理"にならないのではないか、と疑問に感じてしまった。例えば、地震や台風などの自然災害、病気、(自然)死…これらは、確かに「誰かを脅かす・苦しめる」ものではあるけど、世界から無くなることはないし、「シマウマがライオンに食べられる」というのが自然の摂理であって"不条理"とは呼べないように、「自然発生的な誰かを脅かす・苦しめる」ものは、"不条理"とは呼べないのではないか、と。むしろ、それが世界の"条理"ではないか。

 

確かに、地震や台風などの自然災害によってもたらされる影響は先進国と途上国では大きく違う((死者の数でその規模を測ることは一概に正しいとは言えないが)2011年の東日本大震災の死者が1万5894人である一方、ハイチ大地震の死者は31万6千人)し、自然災害に対して脆弱である環境自体は、"不条理"と呼ぶことができよう。また、病気や(自然)死といったことも避けられない運命だとしても、途上国の子どもが5歳の誕生日を(本来防げるはずの病気のために)迎えられないこともまた、"不条理"と呼べよう。

 

しかし、やはり言葉の問題上、不条理を「誰かを脅かすもの・苦しめるもの」と一概に括ってしまうことは、「自然発生的な誰かを脅かす・苦しめる」ものをも"不条理"としてしまっているようで、これは間違っているように感じる。だから、もう一度"不条理"の定義を考えたい。

 

「ひとり一人が尊厳を持ち、自分で『未来』を決められる、公正な社会」という視点から、"不条理"を考えてみる。つまり、「ひとり一人が尊厳を持ち、自分で『未来』を決められる、公正な社会」を妨げているものが"不条理"としたら、それはどんなものだろうか。

 

考えた結果、今の私が「許容できないもの」として一番しっくりきている"不条理"の定義は、「人の尊厳を傷つけ、未来への希望や可能性を奪う、不正義なもの」。それが"不条理"であるからこそ、私が目指す「"不条理"の無い世界」が実現した先に待っている社会が、「ひとり一人が尊厳を持ち、自分で『未来』を決められる、公正な社会」なのだ。

 

たしかに、この不条理の定義はあまりに包括的で、どんな社会(地球)課題であっても、これに該当すると思われる。しかし、この不条理の定義は、ストリートチルドレン、子ども兵、虐殺など、私がこれまでに出会った全ての課題、全ての社会的に脆弱な人々に共通する"不条理"だと、私は感じている。

 

それにしても、これまで"世界の不条理に挑戦する"という信念を持ち続けて今まで様々な活動に携わってきたにも関わらず、いざその"不条理"を言葉にしてみることがこれほどまでに難しいとは…。これからも、私が戦いを挑んでいる"不条理"とやらの正体を掴めるように、考え続けていきたい。