原貫太公式ブログ「世界まるごと解体新書」

アジア・アフリカでの活動からニュース解説記事、仕事論まで。※本ブログの内容は個人の見解によるものです。

みんなが「下」を向けば、この世界は良くなるかもしれない。


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先日、友人に連れられて恵比寿の一等地に立つ高級レストランへと足を運ぶ機会があった。

 

お洒落な店内に流れるジャズのBGM。会社帰りのサラリーマンたち。1枚1500円のピザ。普段外食すらも滅多にしない人間として、気の行き届いたサービスと本格的なイタリアンには、恥ずかしながら感動すら覚えてしまった。

 

大学で国際政治を専門的に学び、休暇にはアジアやアフリカのいわゆる発展途上国へと足を運ぶ。そして、普段から国際ニュースにアンテナを張り、貧困、紛争、暴力、人権侵害といった"世界の不条理"へと目を向ける。そんな生活を送っていると、日本の(少なくとも物質的/金銭的には)恵まれた機会に身を置くたびに、どうしても感じてしまう事がある。

 

「世界には、今この瞬間にも不条理な現実に追いやられている人々がいる。それなのに、こんな贅沢な暮らしをして良いのだろうか。」

 

思うに、この葛藤にはキリが無く、「では、お前が大学に払っている学費や嗜好に費やしているお金を、全てアフリカの貧しい子供たちに寄付すれば?」という極論にさえ辿り着くかもしれない。

 

言ってしまえば、(経済的)格差の極まりない現代世界でこの葛藤を抱えていると、きっと何も手につかなくなってしまうのではないか。だから、大抵の人はその「葛藤」を無意味で生産性の無いものだと割り切り、深く考えようとしない。そう感じるし、私自身もそのようにしてこれまで過ごしてきた。

 

少し話を変えよう。

 

私はアメリカに一年間留学していたため、また早稲田大学の卒業後は大学院への進学を希望しているため、この夏就職活動はしなかった。が、当然周りの4年生の友人はそのほとんどが既に就職活動を終えており、特に私と同じ早稲田大学の友人たちは、社会の第一線で活躍する大企業から内定を貰っている者も多い。

 

4年生ではなく3年生の後輩であっても、少しずつ就職活動、そしてその後の「仕事」に対する準備を進めている者も多い。

 

自分の将来に対する想いが人それぞれであることは言うまでもない。しかし、漠然としてはいるかもしれないが、皆「何とかして社会で成功したい」と思っている人は多いはずだ。

 

そもそも、「社会で成功する」とは、どのような事を意味するのだろうか?「NPO」や「社会起業」といった言葉が少しずつ浸透し始めた今、多少の違いはあるかもしれないが、私たちが今生きている資本主義社会における一般的な「社会での成功」とは、経営者や企業の上級職として成功していわゆる「お金持ち」になり、そして"ハイ・ステータス"を得ることを言うのだろう。

 

億万長者にならずとも、(今)より良い仕事、(今)より良い立場に就き、経済的に「上」へと登っていくことを言うのだろう。しかし、一体どこまで登り詰めれば、「もう十分に社会で成功した」と満足するのだろうか。

 

(経済的な)格差がますます広がっている今日、世界人口の半分と同じ富が62人の富豪に集中している今日、きっと、「上」を目指していても、満足する「ゴール」など存在しないだろう。

 

その反対に、「下」を見てみるとどうだろうか。未だ世界では、本来防げるはずの原因で毎日多くの子供が亡くなっている。中東やアフリカでは、難民や国内避難民も多い。紛争に巻き込まれて亡くなる人も多い。もちろん、日本でも社会問題は限りなく蔓延しており、ホームレスや相対的貧困の問題も根深い。きっと、「下」を見ても、キリがない。

 

興味深い事に、今日の世界のシステム、とりわけ資本主義というシステムの下では、誰かの「成功」は、誰かの「失敗」に支えられているように感じる。

 

もっと言えば、誰かの「豊かさ」は、誰かの「犠牲」によって支えられているようにも感じる。(最近になって少しずつ知られてきたが)私たちの生活にもはや欠かせない存在となったスマートフォンには、レアメタルと呼ばれる希少金属が使われている。

 

このレアメタルのほとんどは、世界で最も貧しい国の一つであるコンゴ民主共和国(DRC)から来ているわけだが、DRCの鉱山では、多くの子ども達が学校にも通わず、過酷な環境下で働かせられている報告も多数存在する。いわば、私たちの「豊かな」生活が、コンゴの子ども達の「犠牲」によって成り立っていると言えるかもしれない。

 

話を戻す。

 

確かに、「世界には、今この瞬間にも不条理な現実に追いやられている人々がいる。それなのに、こんな贅沢な暮らしをして良いのだろうか。」という葛藤を考えるのはあまりに難しく、明確な答えを出すことは不可能なように思える。が、ここで私が、とりわけまだ22歳で、これからの社会を担う存在として考えたいのは、「下」を見て、今の自分の生活を見つめ直すこと、これまでの生活を見直すことの大切さに思える。

 

私は日本という国に生まれ落ちる事が出来たがために、不衛生なスラム街ではなく、病院の清潔な分娩室で生まれることが出来た。5歳までに下痢や栄養不良で死ぬことも無かった。7歳からは、ゴミ山でお金に換えられそうなガラクタを拾うのではなく、小学校に通い始める事が出来た。途中でドロップアウト(学校の中途退学)をすることもなく、中学、高校、そして大学まで通うことが出来た。

 

「こんな贅沢な暮らしをしていて良いのだろうか。」と葛藤したところで、「良い」「悪い」といった単純な答えを、正直に、私は出すことが出来ない。

 

ただ私は、そこで開き直って思考を止めてしまうのではなく、「下」を見る事の大切さに気づきたい。「下」を見続けたい。そして、自分がこれまで受けてきた恩恵を、如何にして社会、世界、特に「下」の人々に還元できるかを考えたい。

 

私が「上」を見てしまえば、「上」に登ってしまえば、私より「下」に位置する人たちは更に増えていってしまうから。



きっと、今の21世紀資本主義社会、皆が皆「高級」に憧れを感じ、それを目指していたら、この世界は成り立たない。その結果が、環境破壊であり、一向に縮まる気配を見せない「北」と「南」の格差であるように、世界中にひずみが生じてしまっている。

 

幼い頃、いや今でさえも、私は、大人たちからは「上を目指しなさい。」「目標は高く持ちなさい。」と教えられてきた。

 

尊敬すべき先輩はいる。叶えたい夢、目標もある。だけど、時々立ち止まって、「下」を見よう。自分の足で誰かを蹴落としてしまってはいないか。自分の足で誰かを踏みつけてしまってはいないか。そんなことに、気を配りながら。

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2015年3月、バングラデシュのストリートチルドレンと筆者(写真:バングラデシュ国際協力隊)