原貫太の国際協力ブログ

フリーランス国際協力師原貫太のブログです。国際協力やNPO・NGO、アフリカ、社会問題などのテーマを中心に解説しています。

拝啓、美しくも不条理な世界へ。ブログを始めるにあたって。

こんにちは。アフリカからアメリカに戻って早二日。移動に70時間費やしたこともあり、今回はさほど時差ボケに苦しんでいません。空港泊ももはや当たり前になってきましたね。

 

さて、今日を皮切りにブログを書き始める決意をしたわけですが、これまでFacebookとTwitterで十分だと考えていた自分が、なぜブログに手を出したのか。

 

理由は単純です。便利だから

 

今涙目になりながら『アフリカ渡航報告書』なるものを日本語版・英語版共に書いているわけですが(辛い)、「どうせ書くなら一人でも多くの人間に読んでほしい(≒読ませたい)」との想いが、遅々として筆が進まぬ怒りと共に沸々と湧き上がりました。

 

しかしながら、この二つのSNSだと書き辛いんですね(主に形式的に)。その点、ブログの方が色々と柔軟なわけです。ということで、ブログ書きます。

 

 

さて、これからブログを始めるにあたって、いやブログを始めないとしても、アフリカという「途上国」からアメリカという「先進国」に戻った今、改めて一度考えておきたいことがあります。それは、私にとって「伝える」ということが、何を意味するかです。

 

「国際協力」という観点から世界、とりわけ途上国の問題や現状に対して日頃から向き合っている人間として、私の前にはいつも大きな壁が一つ、立ちはだかっています。それは、”世界の不条理”を如何にして「伝える」のか、という事です。

 

これまで途上国(フィリピン、バングラデシュ、ルワンダ、ウガンダ)に何度も足を運び、「ストリートチルドレン」「物乞い」「孤児」「スラム」「虐殺」「HIV/AIDs」「子ども兵」など、大学生という立場にも関わらず、私はたくさんの"世界の不条理"と向き合ってきました。そして、ただ向き合うだけではなく、学生国際協力団体のメンバーとしてそれら"世界の不条理"を少しでも克服する方法を考え、悩み、そして葛藤しながらも行動へと移し、また個人としては「国際協力のプロ」になるための道筋とそれら不条理との距離感や関係性を意識し続けています。

 

もちろん、途上国現地に足を運ぶだけではなく、いつもニュースを良く読み、また一日の多くを勉強や日本での活動に捧げている私はそれなりに世界に対して思っている事があり、世界で起きているあらゆる出来事と自分との繋がりを考えながら、毎日を生きています。

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ポリオを患うも、物乞いに利用される少年。この写真を撮影した時、息を止めたのを今でも覚えている(2014年9月、バングラデシュの首都ダッカにて)。

 

私にとって、「伝える」という行為は、いつも葛藤を伴うものです。どのような手段/方法をとれば、自分が現地で見た・聞いた・感じた”不条理”を、受け手の心の奥底にまで届けることが出来るのか。いくら伝えたとしても、その先の行動までもたらすことが出来なければ、つまり「伝わる」ことがなければ、結局は「伝える」という行為も無意味なものなのではないだろうか。そもそも、私のような人間に、”世界の不条理”を伝える権利などあるのだろうか―。

 

これまで様々に悩み、そして葛藤を味わってきた私ですが、アフリカからアメリカに戻ってきて今、改めて感じることがあります。それは、「私にとってここでの『伝える』という行為は、”世界の不条理”に抗い、それを正していくための必要最低限の行為だ」という事です。

 

というのも、私が常日頃から口にしている”世界の不条理”は、決して途上国の現状だけに言及したものではありません。日本の、それも恵まれた環境でこれまでの21年間を過ごしてきた私だからこそ、そこと途上国との間にある、どうしようもないほどに開き切ってしまった「格差」を感じてしまう。例えば、高級感あふれるお洒落なレストランで仲の良い友人たちとの会話を楽しみながら、自分の好きな分だけ料理を注文して、食べ切れない分は平気で残す日本の大学生がいる一方で、何とかしてその日食べるものを得るために、学校に通うこともなく、家族と暮らすこともなく、朝から晩まで駅で荷物運びの仕事に汗を流しているバングラデシュの少年がいる。サッカーとピアノを習いながら進学塾にも通い、クリスマスには親からゲームまで買ってもらう日本の小学生がいる一方で、ある日突然誘拐され、その後望まない兵士に仕立て上げられ、銃を持って戦場で人殺しに従事するウガンダの少年兵がいる。

 

この両者に広がった、気の遠くなるような「格差」もまた、私が口にしている”’世界’の不条理”であると思うのです。その両者を、肉体的にも精神的にも行き来している私にとっては、「伝える」という行為は、この「格差」によって隔たれた両者を繋ぐための必要最低限の行為だと感じるのです。この「伝える」という行為を十分に行うことができていないのであれば、もっと言えば両者の「繋がり」が不十分であるならば、両者にまたがって生きている私は、その「格差」に更なる絶望を感じてしまうでしょう。

 

もちろんそのこと以外にも、例えば「伝えるために自分の考えや経験をまずは整理して、それに対して受け手からのフィードバックをもらうことで、より多様な価値観、そして広い見識を育む」「一人でも多くの人々に、国際協力や世界に問題に対して関心を持ってほしい」など、色々な意義や願いを込めてはいますが、SNS(Facebook&Twitter)に加えて、ブログという一つの手段を通じ、引き続き「伝える」ことに精進したいと思います。

 

                                2016年1月23日

                                   原 貫太